≪喜多方・鶴ヶ城・飯盛山・大内宿≫

     平成29年10月6日(金)〜10月9日(月)


〈あらすじ〉

神大あし48会 <会津若松編>
*日程
 平成29年10月7日(土)〜8日(日)
   宿泊「大江戸温泉物語 あいづ」
  10/7 鶴ヶ城
  10/8 飯盛山・猪苗代
*参加者
  11名

<今回の特別企画>
  ;一日早く到着し 一日遅く余韻を楽しむ (三泊四日);
  10/6 赤羽駅で小岩と落ち合い 小岩の車で郡山へ
  10/7 郡山駅で本庄と林間を出迎え 4人で小岩の車で喜多方へ
      (集合時間午後2時 全員集合
         +あし48会+
       翌日午後3時過ぎ 解散)
  10/8 旭と小岩の車2台で大内宿へ
        芦ノ牧温泉泊 7名
  10/9 車2台で只見川へ

*費用
  会費(あし48会)    : 20,000円
  郡山(10/6分)     : 12,000円
  喜多方(10/7分)    :  3,000円
  芦ノ牧温泉(10/8・9分) : 18,000円
  総費用 約53,000円


≪旅日記≫

+ 10月6日(金)

   天気:曇り (長袖シャツでやや寒い位)

建ちゃん、昨夜横浜で飲みすぎ調子が悪い。何とかかんとか準備して家を出る。
赤羽駅に11時45分(待ち合わせ時間12時)到着。携帯に電話すると小岩は既に来ていた。
二人で、浦和ICから東北自動車道に乗り、那須ICで降りる。

那須街道を上る。那須茶臼岳のロープウェイ乗場まで行き景色を楽しむつもりでしたが、残念ながら、天気が悪く、途中で引き返す。
往く時は「殺生石」や「鹿の湯」を車の中から見、帰りは「北温泉」に寄る。
北温泉には、旅館が一軒あり、宿泊もできるし、日帰り入浴も出来る。

  <写真左:北温泉「秘湯 天狗の湯」  写真右:大露天風呂>

「秘湯 天狗の湯」 単純温泉 1200年の歴史
  那須郡那須町湯本131  0287-76-2008
江戸・明治・昭和の時代に建てられた3つ建物がつながっている。
「奥那須の一軒宿源泉かけ流しの湯で 癒しの時間をお過ごし下さい」とある。
外にはプールの様な大露天風呂がある。今日は、温泉は流れてくるが溜まっていません。
建ちゃん、機会があったら是非この温泉に入ってみたいと思いました。

東北自動車道、白河ICから乗り郡山南ICで降りる。18時頃、今日の宿(東横イン郡山)に到着。
駅の近くで夕餉を楽しむ。
ベットに入り、何分もしない24時少し前、ものすごい揺れで飛び起きる。 地震です。
震源地は福島県の海に近い所、浜通り震度5弱、中通り震度4(郡山は中通りです)。
短い地震だったので、早く落ち着くことが出来、再度ベットの中へ。


+ 10月7日(土)

   天気:雨 のち 曇り (長袖ポロシャツでちょうどいい)

起床6:30、朝食7:30、出発8:50。
郡山駅9:16着の新幹線に乗って来た本庄と林間に出会う。4人で小岩の車に乗り、郡山ICから会津若松ICへ向かう。
会津若松ICから北の方向、喜多方へ。

最初に、昨日建ちゃんが赤羽駅で見た。色づいた大イチョウがある新宮熊野神社へ。
市街地から離れ、小さな集落の奥まったところにある。

  <写真左:新宮熊野神社 鳥居  写真中:参道  写真右:長床>

<新宮熊野神社>
 応徳2年(1085年)源義家により紀州熊野から勧請され、新宮に熊野三社が造営される。

まず目についたのが鳥居、鳥居に取り付けられている注連縄が垂れ下がった状態である事。
その横には年月を感じるケヤキ、大イチョウはどこにあるのか?
事務所で拝観料300円を支払いながら、大イチョウの場所を聞く。
さらに、JRの構内ポスターの話をすると、大イチョウが、あのポスターの様になるには、あと一カ月半ほどかかると教えていただく。
水屋で身を清め、100mほど先に、大きな茅葺屋根の建物が見えてきました。

新宮熊野神社の拝殿であり「長床」と呼ばれています。
この建物は必見です。
9間*4間の大きさで、円柱44本だけで支えています。円柱は1尺5寸(45.4p)、茅葺寄棟造り建物で国の重要文化財に指定されています。

  <写真左:大イチョウ(左)と長床(正面)
   写真右:上段には那智殿・新宮殿・本宮殿>

その長床の左手前に、大きな、大きな「大イチョウ」があります。
全く色づきはしていませんが、大きさには圧倒されます。
(樹高約37m 幹回り約8m 樹齢800年以上)
奥の上段には、那智殿・新宮殿・本宮殿がありますが、階段が工事中で今日はいけません。

この新宮熊野神社は、鎌倉時代初期のころからあった様です。
長床も大地震の影響などで、何回か大掛かりな修理が行われている様です。
さらに、実際に長床に上がる事ができ、感謝感激です。
地元の人かどうかわかりませんが、30人程の見学客を見かけました。帰りに、宝物殿を見て別れを告げます。
そうそう、最初300円を支払う時に何故? と思った建ちゃんでしたが、出る時には納得していました。

  <写真左:人が並ぶ「坂内食堂」  写真右:喜多方市役所>

車で移動し喜多方市役所の無料駐車場に停めました。只今の時刻11時35分。
まずは昼食、喜多方ラーメンを食べましょう。
市役所の近くにある、坂内食堂(バンナイショクドウ)は、全国区の人気で店の前には30人程の人が並んでいます。

我々は、「朝ラーするなら あべ食堂」といわれている「あべ食堂」へ入ります。
スムーズに座る事ができ一安心。何と5分もしない内に満席になり、外で並んでいる人がいます。
本庄と小岩はチャーシュー麺 900円、林間と建ちゃんは中華そば 650円を注文。
注文してから出てくるまで少々時間がかかりましたが、これが喜多方ラーメンかと思いながら美味しくいただきました。
チャーシュー麺と中華そばの違いは、チャーシューの数(10枚と3枚)でした。

          

         <写真:チャーシュー麺>

40人程の客席に、10人程(厨房を含め)のおばさんたちが生き生きと働いています。
何故か、微笑ましい気がしました。
待っている人がいると、食べ終わると直ぐに出ていかなければいけない気分ですね。
外に出ると、10数名の人が並んでいました。

*元祖喜多方ラーメンは、「源来軒」で、昭和初期に支那そばを打ち、喜多方で屋台を引いたのが原点だそうです。この源来軒の店の前でも、大勢の客が並んでいました。
*日本三大ラーメンは、「札幌ラーメン」「喜多方ラーメン」「博多ラーメン」と言われています

「ふれあい通り」に出る。
通りに出ると、右側に何やら椅子が並べられ、これから何かありそうである。通りの反対側には、三十八間蔵・中の越後屋がある。
翌日、新聞を見ると故・金田実氏の顕彰碑の除幕式があったらしい。金田氏は「蔵のまち喜多方」の魅力を写真で全国に発信した喜多方の写真家との事。

我々4人は「蔵のまち喜多方」の代表的なものを見に行く。

  <写真左:旧甲斐本家蔵座敷「店蔵」  写真右:中庭へ入る>

<旧甲斐本家蔵座敷>
 甲斐本店は、味噌・しょう油の醸造を専業とした旧家で、醸造蔵と店蔵と蔵座敷が保存されています。
 特に、蔵座敷は大正6年から7年間の歳月をかけて建築した豪華なもので、その技法・構造は粋を極めたものです。

ふれあい通りを、しばらく歩くと、ちょっとばかり目立つ蔵が見えてきます。
受付の案内に従い中に入ると、若い女性が説明してくれます。ここは店蔵、色々な説明資料が置かれています。
今日は入場料を取らないそうです。
蔵の2階に上がる階段もモダンな物でありますが、奥に見える住居の廊下は目をみはるものです。残念ながら中に入る事は出来ません。

  

    <写真左:縁側の敷板「欅」  写真右:庭園と蔵座敷>

そして、外から中庭に入るように案内されます。中では別の方が説明していました。
ここ中庭から、蔵座敷の中を見る事ができます。
51畳の蔵座敷、大理石の風呂、立派な庭園、住居、何処も中に入るわけにはいきませんが、蔵座敷はオープンになっていて、中庭からでも十分に拝見することができます。

どれもこれも素晴らしいものですが、特に使っている建材・銘木には驚くばかりです。
 建材は無節の総檜
 上段の間の床柱は鉄刀木と四方柾の檜・書院の窓は黒檀
 下段の間の床柱は縞黒檀
 唐紙と障子の戸縁は紫檀
 欄間は一枚の檜板
 壁は金箔の唐紙をはめ込む
 畳は60年間使用
と、説明があります。

  

    <写真左:庭園と店蔵  写真右:上段の間>

一番驚いたのが、縁側の敷板に厚さ2寸・幅4尺の欅が敷き詰められていたこと。
住居の廊下も幅4尺の欅で塗装が施されています。
大きな欅の木を見る事はよくありますが、どれだけ大きな木でも、4尺幅の綺麗に使えるところは、ほとんどないような気がします。

実際に触れる事は出来ませんでしたが、いいものを見る事ができました。
いい目の保養になりました、ありがとうございました。

大正6年から7年の歳月を費やし、当時の金で30万円かかったそうです。
現在の金に換算すると、約5億円だそうです。

  <写真左:島慶園  写真右:蔵見世>

ふれあい通り沿いの「島慶園」「蔵のまち案内所」「蔵見世」などを見、蔵座敷美術館がある信号がある交差点を左に曲がり、八七一(ハナイチ)タクシーを右に見ながら市役所へ。
駐車場へ急ぎ戻り、車に乗り集合場所へ移動する。

◇◇◇

13時55分(集合時間14時00分)「大江戸温泉物語 あいづ」に到着。
11名全員集合し、3台の車に便乗し鶴ヶ城へ。

       

         <写真:鶴ヶ城天守閣からの眺望>

<会津 鶴ヶ城>
 戊辰戦争後天守閣は政府の命令により取り壊される
 天守閣は昭和40年復元される

鶴ヶ城天守閣と、茶室麟閣を見学する。
建ちゃん会津若松には5〜6回来ていますが、鶴ヶ城を見るのは20年ぶりぐらいですが、何か印象が違っていたので幹事に聞くと、2011年に屋根瓦を赤瓦に葺き替えたそうです。
やっぱり・・。

そして、休みの日とはいえ、大勢の見学客がいてビックリです。
さらに、何回見ても、毎回印象が変わることにもビックリです。
鶴ヶ城を別れ、まだ16時過ぎなのに、少しずつ暗くなっていくことを感じます。

  <写真左:鶴ヶ城 天守閣  写真右:茶壺櫓>

市街地を過ぎ、大川の近くにある「如来堂」に寄る。
ここは戊辰戦争時、斎藤一ら新撰組隊士が守備していたが、新政府軍に襲われ全滅した場所との事。

さらに、少し先、神指城跡(コウザシジョウアト)に寄る。
ここは、慶長3年(1598年)会津の領主となった上杉景勝が直江兼続に命じて築城を始めるが、徳川家康の会津征伐により工事は中断され、完成しないまま廃城となった場所。
その石垣の基礎石に使うはずの巨石が保存されている。
さらに、高瀬の大木(ケヤキ)があります。少し枯れかけていますが立派なケヤキです。
(根元の周囲12.5m 目通りの幹囲10.45m 樹高14.6m)

  <写真左:高瀬の大木(ケヤキ)  写真右:田園風景(神指城跡付近)>

17時過ぎ、今日の宿に到着。
風呂に入り、宴会をし、部屋で談義を交わし、24時を廻ったところでお開き。
おやすみなさい。


+ 10月8日(日)

   天気:晴れ (半袖ポロシャツでちょうどいい)

起床6:30、朝食7:30、出発8:30。
早めに起き、風呂に入り、バイキングの朝食を取る。
今日は、午後別々の行動になるため、車4台(幹事 旭 小岩 岡崎)での移動になる。
最初に向かったのは、武家屋敷の少し先にある松平家のお墓。もう少し先には、東山温泉があります。

  <写真左:松平家墓所入口
   写真中:この先「西之御庭」  写真右:この石段を登ります>

<国史跡 会津藩主松平家墓所>
 約15haの広い敷地の中に、2代藩主保科正経・3代松平正容・4代容貞・5代容領・6代容住・7代容衆。8代容敬・9代藩主松平容保、加えて藩主の家族の墓所があり、そのすべてを総評して「院内御廟(インナイゴビョウ)」といわれています。

 

   <写真左:碑石(神獣が台座)  写真右:入之峰地区>

武家屋敷には大勢の見物客がいましたが、松平家の墓所には3名程出会った以外、会うことはありませんでした。
奥の奥に無理やり4台の車を停め、苔むした石段を上っていきます。
若い頃は健脚だった仲間とはいえ、この急な石段はきつかったです。

さらに5分や10分でなく、20分程かかってしまいました。
家族の墓がある「西之御庭」「中之御庭」を過ぎ、保科正経の墓所を見て、入之峰地区へ。

 <写真左:松平容保之墓所・松平家之墓(左奥)  写真右:松平正容之墓所>

ここには、3代・5代・6代・7代・9代の墓所があります。
(中丸山地区には4代・8代の墓所がありますが、見ていません。)
それぞれの墓所には、碑石(亀趺坐)・燈籠・表石・鎮石(墓石)があります。
特に碑石は、神獣が台座となっている、亀趺坐(カフザ)、台座の亀は墓の方向を向いています。
台座の上にある石は、大きく四方に文字がぎっしり並んでいます(藩主の説明)。

このあたり(東山地区)は、立派な石が産出される様です。
昨日見た神指城跡にあった巨石は、このあたりから運んだと幹事が説明していました。

  <写真左:9代容保墓所  写真中:7代容衆墓所  写真右:6代容住墓所>

建ちゃん、何故だか、この大きな石を見ながら、エジプトのアスワンの「オベリスク」を思い出していました。
でも、オベリスクは高さ20〜30mあるのですから、比べたら怒られますよね。
ピラミッドとか古墳とか、世界にも日本のも、いろいろありますが、藩主の墓所としましては、大変珍しいし、大変貴重なものだと思います。

いいものを見させていただいた気がしています。
・合掌・

       

         <写真:白刃の地から見る会津若松市内>

車4台で移動する。飯盛山へ。
幹事と小岩と建ちゃんは階段で、他のみんなは「飯盛山動く坂道」なるスロープコンベアで上ります。
白虎隊墓地でお線香をあげ、自刃の地で遠く鶴ヶ城を眺め、展望台で一休み。

「さざえ堂」は、入口から入り、別の出口へでる。
上って下りるが、上りと下りが別々の通路になっている。
(寛政8年(1796年)建立 高さ16.5m 六角三層の堂 国重要文化財)

 <写真左:さざえ堂入口  写真中:さざえ堂内部  写真右:さざえ堂全景>

少し下って、戸ノ口堰洞穴へ。
本来ならば、猪苗代湖の水を会津盆地へ引くために造ったもので、水が勢いよく流れているのですが、今日は流れていません。そして、大勢の人が集まっています。
今日は特別な日で、水を止め、白虎隊引き上げを体験するため洞穴を歩いているそうです。
小さい頃から、こんな体験したら忘れないですよね。次の世代に伝える事も出来ますよね。
凄いことですね。

          

          <写真:水がなくなった戸ノ口堰洞穴>

白虎隊記念館を見る。
この記念館は、郷土出身の故早川喜代治によって創立され、戊辰戦争時の白虎隊をはじめとする会津藩の悲劇を後世に伝えているそうです。

  <写真左:野口英世の生家  写真右:野口英世記念館>

車4台で移動する、猪苗代湖へ。13時過ぎ、野口英世記念館到着。
建ちゃん、40年程前に見ていましたが、まったく変わってしまっていました。
当時は「野口英世の生家」を見たという印象ですが、今は、生家も囲われ保護され記念館という感じがします。
ここも大勢の見物客がいます。

ここで、岡崎はお別れです。一人車で帰ります。
(本庄へのメールで23時ころ無事到着との事、ご苦労様です。)

隣の食堂で昼食となる。混んでいる中何とか座り、味噌カツ丼(7個)と天ぷらそば(3個)を注文する。
何と、何と、注文してから出てくるまで約1時間かかりました。
まあまあの味でしたが、時間がおしています。

今日帰る。鳴門と戸塚を幹事が猪苗代駅まで送っていきます。
(何とか予定した最終の電車・飛行機に乗ったそうです、幹事に連絡あり。)

◇◇◇

今日、もう一泊する7名は、旭と小岩の車に乗り15時過ぎ猪苗代湖を出る。
ナビ通り走り、大内宿こぶしラインの案内看板に従い、下野街道を走る。
廻りは山深くなり大内峠を超え。右に大内ダム湖を見ながら、16時20分ごろ大内宿に到着。

       

         <写真:大内宿を上から望む>

<大内宿>
 福島県南会津郡下郷町大字大内  標高約670m
 会津西街道(会津若松から今市)の宿駅のひとつ
 江戸時代の町並みと面影を今に残す宿場
 国選定重要伝統的建造物群保存地区 (昭和56年4月18日指定 面積11.3ha)
 妻籠宿・奈良井宿に続いて3番目に指定される

      

       <写真左:今の大内宿  写真右:昔の大内宿(看板)>

駐車場に何とか停め歩きます。薄暗くなった今でも大勢の人がいます。
まずは車と人の多さにビックリです。大内宿の中へ。
写真等では見ていましたが、これだけ整然として茅葺屋根がつながると凄いです。
ほとんどの建物が、江戸時代後期から明治時代初期に建てられたものだそうです。

重要伝統的建造物群保存地区に選定された時に、茅葺屋根に復元したり、電柱や電線を裏側からとるようにやり替えたそうです。
本陣は、戊辰戦争時に倒壊してしまったので復元したと記されています。

  <写真左:大勢の人がいる大内宿(1)  写真右:大内宿(2)>

大内宿は「ねぎそば」が有名なようですね、あちこちの店にあります。
我々は、竹馬に興味津々、若い時は皆出来たようですが、今では無理なようですね。
高台にある子安観音の横で、大内宿を一望できる。ここからの眺めは必見ですね。

       

         <写真:高台から大内宿を一望できる>

廻りは益々暗さを増しています。急ぎ駐車場に戻り「塔のへつり」へ。
走る事、約20分。途中、左側に茅葺の駅舎がある「湯野上温泉」駅を車窓から見る。
塔のへつりに着いたのは17時25分、廻りは真っ暗です。
吊り橋を渡り、何とか見るだけは見ました。
残念ながらデジカメは見られる状態に写っていません。1時間遅かったですね。
でも、こんな暗くても我々以外に10名程の見物客がいました。ビックリです。

       

         <写真:「塔のへつり」の吊り橋>

またまた20分程車で大川沿いに戻り、今日の宿へ。
「不動館 小谷の湯」
  福島県会津若松市大戸町大字小谷字湯ノ平2498-2  0242-92-2311
  源泉かけ流し(泉質:硫酸塩泉 源泉温度:58℃)
温泉に入り(こんな熱い湯に入る事は珍しい 43〜44℃位かな?)、
 ・夜中に一人で入りに来た時は、あまりの熱さに浸かる事は出来ませんでした・
夕餉を取り(おかみさんが地酒2本サービス)、部屋で談笑し、24時過ぎ寝る。
おやすみなさい。


+ 10月9日(月)

   天気:晴れ (半袖ポロシャツでちょうどいい)

起床7:00、朝食8:00、出発9:00。
朝、温泉に入って出てくると、4時に起きて仕事をしてきた幹事が、我々が泊まっている宿まで来てくれた。
12時に戻ればいいという事で、案内をしてくれるとの事。

朝食を済ませ、9時過ぎにスタートする。
昨日、大内宿も塔のへつりも見たので、只見川沿いにある柳津町へ向かい。その後、只見川の渓谷を楽しみながら進む予定をたてる。
旭と小岩の車は、幹事の車の後に続く。途中、伊佐須美神社と中田観音に寄る。そして、柳津町にある圓蔵寺へ。

  <写真左:伊佐須美神社
   写真中:神社前の池で餌をあげる  写真右:中田観音>

<福満虚空蔵菩薩 圓蔵寺>
 福島県河沼郡柳津町柳津
 創建:大同2年(807年) 空海作といわれる虚空蔵菩薩を安置するため徳一が建立
 臨済宗妙心寺派
 丑年・寅年生まれの人の守り本尊
 赤べこ発祥の地
 七日堂裸まつり(毎年1月7日 一年の幸福と無病息災を祈る祭り)

   

     <写真左:圓蔵寺 本堂  写真右:海運 撫牛>

圓蔵寺本堂は、只見川の上にあり遠くから大変よく目立つ。
駐車場に車を停め、見学する。
牛と虎が境内にあり、悪いところをさするとそこが治るらしい。
建ちゃんも、去年今年と痛めた腰や膝を、さすっておいた。治るといいね。
そうそう我々は一人を除いて(早生まれで兎)全員、丑年か寅年生まれです。

それにしても、ここ本堂からの眺望は最高です。
くねって流れる只見川。その流れる水の色、只見川に架かる朱色の橋、緑の樹木、青い空、素晴らしいですね。

       

         <写真:圓蔵寺本堂から見る只見川の眺望>

ちょうど祈祷があるらしく、お坊さんの読経は、いいものですね。
残念なことが一つあります。本堂の裏の方に落書きがあったこと、注意書きがありましたが寂しいことですね。

駐車場に戻り、今日の解散予定地の浦佐へ。ナビをセットしてみると到着時刻15時30分を指す。
当初、到着時刻15時を予定していたし、昼食も見学も出来そうにない。
みんなと相談の結果、旭の車は新潟方面へ(旭 本庄 札幌)、小岩の車は郡山方面へ(小岩 林間 蒲原)。
建ちゃんは、幹事に柳津町の駅に送ってもらい、只見線に乗って新潟へと思うが、駅にいってみると本数があまりにも少なくたどり着けない事がわかり、小岩の車に乗せてもらう事になる。
幹事とは駅で別れる。旭・本庄・札幌とは圓蔵寺の駐車場で別れる。

建ちゃん、4日間で特に印象に残った処は、喜多方の「長床」と、会津若松市東山地区にある「会津藩主松平家墓所」です。
また、機会があったら、ゆっくりと来たいものですね。

小岩の車に乗った4人は、高速道路に乗る前に、道路沿いにあった店(御殿場茶屋)で、もりそば(新そば)を800円で食べる。
磐越道会津坂下ICから乗り、渋滞の中を廻って廻って、18時過ぎ東京駅到着。
小岩・蒲原・林間は、ここ東京駅で解散。それぞれ帰宅の途へ。
ちなみに、旭の車の3人は、本庄は駅で、札幌は空港で、別れたとの事。
4日間お疲れさまでした。


*2017年10月7日*

 

 福島 会津鶴ヶ城


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 1950建ちゃん旅日記


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