≪袋田の滝と常陸太田「板谷坂」へ≫

     平成26年9月9日(火)


〈あらすじ〉

青春18きっぷ、あと2回分あるので、8・9日か、9・10日の予定をしていました。
でも、色々重なり、天気も考慮して、本日(9日)の日帰り旅行にしました。
そして、
「大人の休日倶楽部8月号」を見て、常陸太田の街に行きたくなり、
なおのこと、
本日の出発となりました。

天気 : 曇り 後 晴れ
気温 : 朝方は雨が残っていて18°、日中は良く晴れて26°まで上がる。
陽気 : 歩いている日中は、天気もよく、風が涼しく、すがすがしい。


≪旅日記≫

+ 9月9日(火)

朝4:40起床、5:20家を出て、5:39発の急行電車に乗り込む。
水戸駅に9時前に到着し、9:22発の水郡線に乗り、袋田駅に10:31到着。
駅前にバスが待っていて、十数名の乗客を乗せて出発、10分程で「滝本」に到着。
10分程、川沿いの道を歩き、観爆利用券300円を支払い中へ。

「袋田観爆施設利用券」の裏には、
袋田の滝トンネルは、昭和54年4月に完成し、長さ276m、高さ3m、巾員4mあり、中間に展望台や吊り橋への通路を作り、誰もが観瀑台より素晴らしい滝が鑑賞できるように工夫したこと。
袋田の滝は、巾73m、高さ120m、四段に落下するところから別名「四度の滝」と呼ばれ、日本三名爆の一つであり、四季に織りなす滝の造形は心やすらぎ、感動を与える。
と、書かれている。

観爆台のところには、その昔、西行法師が訪れた際「四季に一度ずつ来てみなければ 本当の良さがわからない」と絶賛したので「四度の滝」と呼ばれる様になったとある。
この観爆台からは、滝の全容は見えないが、水しぶきがかかり、滝の大きさを感じる。

さらに、
平成20年9月に新観爆台が完成し、エレベーターで昇り、第一観爆台、第二観爆台、第三観爆台から、全体の袋田の滝を鑑賞することができる。
一番高い第三観爆台は、旧の観爆台より51m高い位置にある。
袋田の滝は、大岩壁を四段にわかれて流れ落ちる。

今日の流量は、段に比べて多いとのこと。
確かに、絶え間なく流れ落ちる。この袋田の滝は素晴らしいと思う。
しかし、もっと近くで見られたら、もっと感動するのになぁと思う。

  <写真左:ここは第二観爆台 この下が第一観爆台 右上が第三観爆台
   写真右:袋田の滝(第二観爆台からの眺め)>

  

  <写真左:第一観爆台からの眺め  写真右:第三観爆台からの眺め>

<日本三大名爆>
  「華厳の滝」 栃木県日光市
  「那智の滝」 和歌山県那智勝浦町
  「袋田の滝」 茨城県大子町

一般的に「日本三大名爆」は、この3滝であると言われています。
「華厳の滝」と「那智の滝」は誰もが認める不動の存在で全国的に有名であるが、「袋田の滝」は全国的でなくやや知名度が低い。
ポスト袋田の滝としましては、秋保大滝(宮城県)・安倍の大滝(静岡県)・称名滝(富山県)・白水滝(岐阜県)・布引の滝(兵庫県)がある。

  

  <写真左:袋田の滝(観爆台からの眺め)  写真右:吊り橋から観爆台を見る>

階段がないので、エレベーターで下におり、再度 旧の観爆台から滝を眺め、吊り橋の方からでも、元に戻れると聞いて、吊り橋を渡る。
渡ったところに案内があり、袋田の滝の上流には「生瀬滝」があるらしい。

袋田の駅に行く。次のバスが11時、その後は13時10分とバス停に書いてあった。
現在の時刻が11時半過ぎ、11時のバスは既になく、13時10分のバスには時間がありすぎるので、生瀬滝を見に行くことにする。
45度以上もある急な階段を上り、生瀬滝を遠くから眺めるが、まだまだ時間がある。
「月居山」(ツキオレヤマ) 標高404m に、アタックすることにする。

  <写真左:月居山前山からの眺め  写真右:月居観音堂>

月居山前山、月居観音堂、月居峠、この峠から5分で月居山(月居城跡)であるが登らず、 峠から違う道で吊り橋近くまで降りてくる。
滝見橋まで来ると、ほぼ平らな道になる。このあたりの標高は約110mである。土産物や食堂の店を見ながら、バス停に戻る。

  <写真左:滝川・滝見橋  写真中:袋田の瀧  写真右:袋田駅>

現在の時刻、12時半過ぎ。
袋田駅、次の電車は12:39発、その次が13:55発、駅までの距離が約3.5km。
13:10発のバスに乗って13:20についても、まだまだ時間がありすぎる、歩いて袋田駅へ。40分程で無事到着、バスに乗ってきた人、5人。
袋田の滝を見に来る人たちは、圧倒的に車で来る。
JR水郡線の本数も少なければ、バスも少ない。事前調査の重要性を感じる。
ちなみに、大子町観光協会の電話は0295-72-0285です。

袋田駅13:55発、上菅谷で乗り換えて、常陸太田駅15;06着。
駅前の観光協会で話を聞き、歩き出す、大人の休日倶楽部で紹介されていたところを紹介される。
 レトロな街「鯨ヶ丘」散策
 なだらかな坂道(木崎坂)を上り、「鯨ヶ丘ふれあい広場」へ。

  <写真左:常陸太田駅  写真右:鯨ヶ丘ふれあい広場>

「鯨ヶ丘ふれあい広場」
鯨ヶ丘の台地には、今から約900年前の平安時代の終わり頃に、藤原通延によって城が築かれました。佐竹郷の馬坂城を居城としていた佐竹氏はその勢力を拡大し、舞鶴城(太田城)に本拠を移し、藤原氏は小野崎城に移りました。舞鶴城は現在の太田小学校付近にその中心があり・・・・・
江戸時代になると、佐竹氏は秋田への国替えとなって、舞鶴城は廃城となり、その後に中山備前守が屋敷構え命ぜられ大田御殿と呼ばれました・・・・・
東通りと西通りにわかれるこの地は、人通りも多く町への入口という重要な場所であったようです。
・・・・・
   常陸太田市・常陸太田市教育委員会
という、案内看板があります。

その広場の西側には「別雷神社」があり、東側には「法然寺」があります。
この広場から、東通りを歩き、板谷坂へ。
ここから、西通りに移動し北上する。
突当りの常陸太田郵便局を左折し、若宮八幡宮、太田小学校、名城町の交差点、古刀比羅神社、東通りを南下しながら板谷坂に戻ってきます。

さぁ鯨ヶ丘の散策開始です。いやいや散策は既に開始していますね。
まずは、板谷坂に驚き、今度は日が傾き始めた頃に、もう一度見たいと思います。

  <写真左:立川醤油  写真右:助川印刷>

杉本坂方面に歩き、西通りを右折する。
まず、目に飛び込んできたのが、左側の「立川醤油」、右側の「和田薬局」、その先の「助川印刷」、左側に工事現場が見えます、なんと「梅津会館」です。
「梅津会館耐震改修工事」と工事看板が掲げられています。残念ながら見学は出来ないようです。
さらに、その先の建物にブルーシートがかけられ無残な姿になっている。なんと「常陸太田市郷土資料館分館」である。何とも痛々しい。

その先の交差点を左に進むと「十王坂」その先は下っていき、太田二高をはじめ眼下に広がる。
交差点の右角には「オーベルジーヌ」その東隣の「塩町館」と、目に飛び込んでくる。
なかなかの佇まいである。

  <写真左:梅津会館  写真右:オーベルジーヌ 塩町館>

まっすぐ北上して、突当りに「常陸太田郵便局」、左の角に「銚子屋旅館」。

突当りを左折し、100m程歩くと道路は右へカーブしている。そのガードレールの西は20〜30m一挙に下がっていて、下の方に街が広がっている。
そのコーナーの北側に、「若宮八幡宮」が悠然と控えている。階段を上り、大鳥居をくぐる。中に入ると、まず目にするのが、大きなケヤキの木。

  <写真左:若宮八幡宮(神門 奥に本殿)  写真右:大鳥居と大ケヤキ>

「若宮八幡宮のケヤキ」
  幹周:11.4m 根元:25.0m 樹高:約30m 最大枝張り:約20m
  推定樹齢:640年

この大鳥居から神門までの約30m、大ケヤキはもちろんのこと、静寂さ、緑の濃さ、なんとも言葉で表しづらい趣を感じる。
神門をくぐり、その先の御本殿で、お賽銭を入れ、お参りをする。
心が大変清められました。

「若宮八幡宮」 常陸国太田郷鎮守
応永年間(1400年代)、13代佐竹義仁が鶴岡八幡宮から勧請した分霊を舞鶴城中に祀り、守護神としたのがはじまり。

若宮八幡宮を廻るように北上し、太田小学校へ。
ちょうど小学生の下校時間なのか、ワイワイガヤガヤ騒がしい。
この街に入って、あまり人にあわなかったので、子供たちが騒がしくてもウキウキします。

太田小学校の正門から20m程入ったところに、大きな石碑が見えます。「舞鶴城址」と刻まれています。
ここは、舞鶴城跡であり大田御殿跡である。
何も残っているわけではありませんが、高台の丘陵地なかなかの場所のようです。

北側の広い空き地の向こうに、太田一高が見える。いくつもの垂れ幕が下がり、スポーツが盛んな高校であることがわかる。
この太田一高には、国の重要文化財である「旧茨城県立太田中学校講堂」がある。

しかしながら、建ちゃんはいかない。ちょっと疲れていたことと、時間が気になったから。沼田本店(人形店)を左手に見ながら、中城町の交差点へ。

<写真左:舞鶴城趾  写真中:歴史に逢える街「鯨ヶ丘」  写真右:宮田書店>

この交差点の角の石碑に、「歴史に逢える街 鯨ヶ丘」とある。ここから眺める、眼下に広がる東側の街並みも圧巻である。
内堀町に向かって南下する。右側に「ヨネビシ醤油」、少し先の「宮田書店」、歴史そのものである。
正面に「古刀比羅神社」を見ながら内堀町の交差点を左折し、すぐに右折する。ここは東通り。

東通りに入って、すぐ左手の角「喜久屋」「宝月堂」「花月」と並ぶ。
さらに、右手に「佐藤運動具店」、左手に「川又薬局本店」と続く。
さらにさらに、左手に「旧稲田屋赤煉瓦蔵」「Sunny Sunday」「山林堂本店」と並ぶ。

  <写真左:佐藤運動具店
      写真中:旧稲田屋赤煉瓦像 Sanny Sunday(白い建物)
                写真右:Sanny Sunday 山本堂本店>

山林堂本店は交差点の角にあり、左(東側)に折れれば「塙坂」。
交差点の反対側は、通り塩町「東の辻」があり、ちょっとした広場になっている。
この東通りが、「鯨ヶ丘商店街」の中心地のようである。
特に、角の喜久屋さんから板屋坂あたりが、大変懐かしい心地よい雰囲気を味わいながら歩くことができました。
「ありがとうございます」

「旧稲田屋赤煉瓦蔵」の説明書きには、明治43年(1910年)に、この地で酒造業を営んいた稲田屋の稲田敬造氏が建造した。3階建て総赤レンガ造りの倉庫であり、貴重な建造物であると、学術調査を行った、筑波大学藤川研究室の名で紹介されている。

東の辻を右(西側)に30〜40m入った右側、「阿夫利道了 ・雨神社・」へ。可愛くて、可愛くて、見逃せない感じ。
その並びに、西通りを歩いている時に見た「塩町館」「オーベルジーヌ」と繋がる。
ここオーベルジーヌの前の交差点、東の辻前の交差点、波模様の道路。
その交差点を結ぶ、雨神社の前の、石畳の道路、この鯨ヶ丘は道路まで気を使っていて、歩く楽しみが益々増える。

東通りに戻り、左手の「くじら屋」で足を止める。店の前に、鯨ヶ丘の由来の説明書きがある。
「鯨ヶ岡(丘)の由来」
景行天皇の時代(4世紀頃)、日本武尊が東夷征伐のために、この地を巡った際、丘陵の起伏があたかも鯨が洋上に浮遊している状に似ているので「久自」と名付けた。
 「久自」→「久慈」→「鯨ヶ岡」
   「太田盛衰記」より

  <写真左:通り塩町「東の辻」  写真右:この先「板谷坂」>

「板谷坂」(バンヤサカ)
現在の時刻、16時21分。
通り塩町「東の辻」から約100m、ここ板谷坂に戻ってきました。
太陽もかなり傾き、ほぼ東の方向に下っていく板谷坂の階段を照らしています。

右側の板谷坂の石柱には「板谷坂」の説明があり、
〈板谷坂は古街道の一つで、ここから見た阿武隈連山を背景にした風景を・まゆずみ・に例えて「眉美千石」と呼ばれ、広大で豊かな田園風景が広がっている〉とある。
左側の2本の石柱には、「成田山不動尊道」「板谷稲荷神社参道」と表されている。

くじら屋さんの前に、嘉永3年(1850年)頃の鯨ヶ丘の絵地図がありました。
ここ鯨ヶ丘の台地が中心になって商売や暮らしが発展し、太田七坂と呼ばれる坂を下りた。東・西・南の平坦地は、川も流れ、広々とした田畑が続いていて、東の奥、西の奥には山々がそびえている様が描かれています。
その坂の一つ、坂の代表的存在が、この「板谷坂」です。

    

  <写真左:坂の代表的存在 板谷坂(1)  写真右:板谷坂(2)>

田畑は全て、市街地に変貌しましたが、この板屋坂から眺める景観は、今でも見た人全ての人の心をつかむのではないでしょうか。
圧倒されながら、一生懸命シャッターを押す建ちゃんがいます。
そして、思わず言ってしまいます。
「凄い 素晴らしい」。 「ありがとう」。

板谷坂の階段を降り、常陸太田市役所の横を通り、常陸太田駅へ。17:25発の電車に乗り、水戸、上野、新宿で乗り換え、22時半過ぎ、無事帰宅。


*2014年9月9日*

 

   袋田の滝


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